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小中学生が全員メールアドレスを持つ町 北海道・標茶町 [Tuesday, February 3, 1998 松浦 晋=日経MAC]
マックでホームページに載せる絵を描く阿歴内小中学校の小学1年生 大学が新入生全員にメールアドレスを与えることは最近では珍しくなくなった。しかし小中学校となるとどうだろう。 実は小中学生全員がメールアドレスを持っている町がある。北海道,釧路の東北に位置する標茶(しべちゃ)町だ。香川県ほどのもある広大な面積に人口は約1万人。税収に対する町の予算規模は10倍以上。つまり予算の9割以上が国からの補助。一割自治以下というわけだ。 しかし過疎に悩むこの町は町役場が中心になって,密度の高いインターネット・サービスを町民に提供している。 なぜ標茶町はかくもインターネットに力を入れるのか。そしてそれは住民の意識にどのような変化をもたらそうとしているのだろうか。
「最初は小中学校の先生の中からの意見でした。インターネット・プロバイダーを町でやってほしいという要望がでたのです」と,標茶町役場・総務課の佐藤吉彦さん(写真)は話し出した。1995年の夏,その前年から始まったインターネットのブームが標茶にまで及んだ瞬間だった。 これには前段があった。同町の阿歴内(あれきない)小中学校(小学校と中学校が同じ校舎に入っている小規模校)がアップルコンピュータの実験プロジェクト「メディアキッズ」に参加していたのだ。メディアキッズはアップルが1993年から94年にかけて実施したメディア実験だ。パソコンと通信回線をアップルが提供して,全国の小中学校を結んで交流を行うというものだった。 つまり,阿歴内の,さらには阿歴内の実験を見守っていた標茶の先生たちの中には,インターネットのようなメディアにいち早く目をつけ,利用しようとするだけの経験が蓄積されていたのである。 町の側にもインターネットにインターネットに進出する下地があった。佐藤さんは地域の情報化を担当しており,1990年には行政情報などを提供するテレホン・ガイドとファクシミリ・サービスをスタートさせていた。しかしこれらは行政から住民への一方通行だ。何とか双方向の情報の流通ができるメディアが欲しい。インターネットは町の側から見てもうってつけのメディアだった。 時はまさにインターネットのブームが始まったばかり。1995年の11月には釧路で最初の地域プロバイダーがサービスを開始した。そのような雰囲気の中で,標茶町は町自らがプロバイダーとなる計画を進めることになる。翌1996年,町の支援を受けた任意団体という形で「SIP(Sibetya Internet Project:http://www.sip.or.jp/)」が活動を開始した。個人会員の料金は年間定額の5000円。過疎の町の格安プロバイダーの出発だった。 それまで標茶でインターネットを利用したければ釧路のプロバイダーに電話でダイアルアップ接続をする必要があった。釧路までの電話は1分10円。それに比べてSIPならば都会並みに3分間10円でインターネットが利用できる。SIPはコスト的に都会以上の条件の情報環境を標茶町に実現するものだった。 ここで面白いのは,最初の発想が「世界につながるインターネット」ではなく「地域内の双方向メディア」というものだったことだ。つまり,別に世界に向かって情報発信などという気負いはなかったのである。この気負いのなさ,自然体は標茶町のインターネット全体の特徴となる。 しかしそれだけではよくあるお役所仕事の限界を超えることはなかったかも知れない。標茶のユニークさは,インターネット普及のための戦略にあった。 学校を普及の拠点に 佐藤さんらは体験講習会を開き,インターネットがどのようなものなのかを,身を持って知ってもらうという方法を取った。その最初の対象は,小中学校の校長さんたちだった。次に小中学校の先生,事務職員,と学校に関係するすべての人を対象に講習会を行った。 「戦略的に学校に力を注いだのです」と佐藤さんは言う。子どもがすぐにパソコンや通信に慣れることは,阿歴内の経験から分かっていた。子どもが使えば当然家庭で話題にするだろう。そうなればいずれ親も使わざるを得なくなるはず。学校と子どもを中心にした普及を狙ったのである。次いで講習の範囲を広げていった,夜には町民全般を対象にした講習会。土日には小中学生向けの講習会。さらには予算の議決権を持つ町議会議員向けの講習会,というように。 さらに町役場と図書館にそれぞれ1台,インターネットの端末を設置して自由に使えるようにした。日ならずして子どもたちが放課後に端末に群れるようになった。それまで大人しか来なかった町役場に,子どもたちが遊びに来るようになったのだ。 1996年8月に最初の会員100名を募集したところ10日程で一杯になった。その後回線の増強を繰り返し,今では会員300名弱(うち個人会員240名ほど)になった。人口1万人,3000世帯ほどの町としては立派な普及率といっていいだろう。しかも会員の1/4はISDNを使ってアクセスしていると言う。「会員が500人を超えると収益的にも割りが合うようになります。今の会員数の増加から見て,この目標は達成できるのではないかと思っています」と佐藤さん。 過疎の町のインターネット・プロバイダーは事業の立ち上げに成功したのである。 町民の意識が変わる それではインターネットによって町民の意識にはどのような変化が起きたのだろうか。 「明らかに意識は変化しましたね」というのは同町で精肉業を営む野崎政則さん。「これまでは一種の金縛り状態で,例えば釧路に対抗して商店街を活性化しなくてはという時も,このままではいけないという意識はあってもうまく動けなかったんです。インターネットによって動くためのきっかけをつかめました」 SIPでは昨年,同町商工会青年部に集まる若手経営者(写真2)らが協力して仮想商店街「過疎ウッ商店街」(http://www.sip.or.jp/SAP/)を立ち上げた。同町の店舗20軒あまりがSIPのWebサーバーにホームページを立ち上げて物品の販売を始めたのだ。野崎さんはこれに参加して,ジンギスカン鍋用の肉を通信販売することにした。 参加,といってもただ漫然と情報を提供するだけではなかった。過疎ウッ商店街の立ち上げにあたって集まった若手経営者達は,まずHTMLの勉強から出発したのだ。ホームページ作成業者に頼むと見かけはきれいなページになるが自分たちにとっての切迫感がなくなる。どんなに稚拙でもいいから自分達のホームページは自分達で作ろう,というのが基本的な方針だった。 ——野崎さんの仮想店舗は,それまでのカタログによる通信販売とどこが違いましたか 「カタログ販売だと反応がないんです。注文が来なくなって,ああ味が気に入ってもらえなかったんだな,とわかる程度です。インターネット経由の注文では後でメールが来ておいしかったとか,こうして欲しいというような反応があります。それに別の地域の仮想商店街に加入してリンクを張ってもらえるとか,あるいは本州でもジンギスカン用肉を販売している仮想店舗を見つけるとか,とにかく視野が広がりました。自分の商売のクオリティが全国レベルで見てどの程度かもわかるようになりましたし」 野崎さんは仮想店舗の効用を以下のようにまとめる。 「確かに意識は変わりました。色々な意味で町の外を意識するようになりました」過疎の町に縮こまっているのではなく,世界を見て物を考えるようになったということだろう。「しかしそれで生活が変わるのはこれからでしょうね」 生活が変わるというのはつまり,仮想店舗のようなネットからの収入で暮らしていけるようになるということだ。 「もちろんまだまだお客を呼べるようにしなくてはなりません。まだまだ始まったばかりです。ただ,仮想店舗はさまざまなアイデアで冒険がしやすいというの大きなメリットがあります」と標茶町商工会の日向義紀さんは言う。日向さんは6歳の息子の名前を使って,なんとセミの抜け殻を売る仮想店舗を立ち上げた。標茶では夏になるとそれは見事で美しいセミの抜け殻が採れるのだと言う。普通の店舗ならばセミの抜け殻を売ろうという発想は出てこないだろう。一見突拍子もないことだが,もしもこれで「セミの抜け殻の標茶」というブランドが確立すれば,観光客を呼び込み,商売として成立する可能性がないわけではない。インターネットの仮想店舗ならば,コストもかからずに新しいアイデアを色々と試すことができる。 「これまでに札幌の6歳の女の子から息子宛に電子メールをもらいました」と,それだけでも良いではないかという風に日向さんは言った。「もしも最初の一匹が売れたら皆で盛大にお祝いをしようと話しているんです」 学校では特にネットの授業はなし サービス開始から1年半ほどでここまで来た標茶のインターネット。その震源地となったのが阿歴内小中学校だった。そこでは一体どのような取り組みをしているのだろうか。同校の廊下の壁には10BASE-TのEthernetのケーブルが這っており,先進的な授業が行われているのではないかと予感させる。しかし,そこで聞いた話は意外なほどにあっさりしていた。 「特にインターネットやパソコンの授業のための時間は取っていないんです」 江縁(えぶち)考司校長は言う。ドリル形式の教材ソフトを使った授業も実施していない。子ども達は自然にキーボードやマウスを初めとしたパソコンの使い方を覚え,メールのだし方を教え合い,ごく自然にパソコンとネットのある環境になじんでいくという。そして通常の授業の中で自然とパソコンが利用されるようになっていくのだそうだ。例えば地域を調べるというような社会科の授業で,地域のお店をまとめたホームページを作るというように。ちょうど私が取材に訪れた時には,1年生がメールをやりとりしている沖縄の小学校の生徒に見せるための「雪の生活」の絵をパソコンで描いていた。描いた絵はホームページにアップするのだという。 「ホームページ作成は先生の仕事ですが,でも気が付くと生徒が画像をGIFファイルへの変換を覚えて自分たちでやってしまったりしますよ」というのは同校の大久保一樹先生だ。 「生徒全員にメールアカウントを与える時も,ローマ字を教えてもいない小さな子にアルファベットのアカウントを与えて良いものか,という議論がありました。でも何の問題も起きませんでした」 子どもの柔軟性は大人の予想以上だったのである。 「面白いことに学年によってホームページに熱心な学年や,メールに熱中する学年があります。委員会の便りなんかも,この前までは熱心にメールで出していましたけれども,最近は飽きたのかまた手書きに戻っていますね」と,江縁校長。あくまで自然体なのだ。「むしろ先生の方が苦労していますね。私のところにも生徒からメールが来るからきちんと返事を出さなくちゃいけない。出さないでいると,『先生返事がないよ』と生徒がやってきます。『口で返事するからいいだろ』と言っても生徒にすればメールで返事が欲しいんですよ」 このような自然体を可能にしている背景には,阿歴内が小規模校で生徒一人あたりのパソコンの台数が多く,すべての生徒がゆったりと時間を取ってパソコンを使えることがある。実際大規模な学校になるほど,パソコンやネットへの取り組みが遅れる傾向があるそうだ。 そしてもう一つ,周囲の豊かな自然も見逃すわけにはいかないだろう。ここではいくらネットに熱中しても生活の全てがバーチャルで埋め尽くされることはないのだ。意外と標茶のような所こそコンピューター教育に向いているのではないかとも思える。少なくとも都会で阿歴内の環境を整えると,生活全てがネットに吸収されてしまう生徒が出てきそうだ。
●阿歴内小中学校のホームページ ユーザーとソフト主導のインターネット普及 これまで見てきたように標茶のインターネットへの取り組みは,学校を中核とした普及方法と自然体の取り組みで成果を上げてきた。まだ,インターネットが地域経済に寄与し,進行しつつある過疎をくい止めるには至っていない。しかしインターネットがこの過疎の町に新たな希望を与えているのは確かに思えた。 (98.2.3 北海道釧路にて=松浦 晋) ●写真1 標茶町のインターネット導入の中心となった佐藤吉彦さん
●写真2
仮想ウッ商店街に参加した商工会の面々
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