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記者一人の小さな電脳地方紙と それを支える「劇団プロバイダー」 [Thursday, February 5, 1998 松浦 晋=日経MAC]
大曲は大雪の降る土地だ。伊藤さんはその土地で生きてきた 「四十九の手習い」と言うと失礼になるかも知れないが,秋田県大曲市の地方紙の記者,伊藤正雄さんにとっての転機は,パソコンを買おうと思ったところから始まった。1996年4月,49歳の春だった。まさか自分が,その年の内に自分の新聞を発行することになるとは思ってもいなかった。 それはパソコンのお稽古から始まった パソコンを買おうとした目的は,インターネットにあった。変化の少ない地方としにもインターネット・ブームの波は届いていた。いずれ大曲市にプロバイダーができたらインターネットというものを試してみよう。そのためにはパソコンが使えなくてはならない。そう考えて伊藤さんはノート・パソコンを買った。パソコンについての知識があるわけではない。分からないことは販売店に聞きつつ,一つずつ操作を覚えていった。 その年の10月,大曲市で地域プロバイダーがサービスを開始した。さっそくインターネットの繋いでみる。ところが伊藤さんにとってインターネットは予想したほど面白いものではなかった。ネットサーフィンにも飽き,やがて仕事柄から大手新聞のホームページを見ることが多くなる。 その時だった。ひらめいたのは。 「自分でホームページを作れば,自分の新聞を発行することができるじゃないか。紙の新聞は印刷や配達でお金がかかる。でもホームページで新聞を発行すればほとんどコストはかからない。しかも大新聞のホームページも自分のホームページも同じホームページだ。インターネットなら大新聞と同じ土俵でやっていけるのではないか」 伊藤さんはホームページを作るための知識を一切持っていなかったが,行動は早かった。ホームページ作成の知識を教えてくれる人を探すうちに,大曲市の隣,田沢湖町のプロバイダー「きたうら花ねっと」を紹介される。花ねっとの技術者の海賀(かいが)孝明さんを先生に,伊藤さんはホームページを作るための最低限の知識の習得を開始する。同時にコンテンツの蓄積を開始し,1996年12月1日,ホームページ「秋田県南日々新聞」(http://www.hana.or.jp/hana/nitiniti/)を公開した。 本業の傍らの情報発信,記者一人の小さな電脳地方紙の出発だった。 海外へと広がる縁 県南日々新聞を始めるにあたって伊藤さんは2つの方針を決めた。一つは毎日必ず更新すること。もう一つはなるべく大曲周辺の風景などの画像を入れること。これがやってみると意外と大変だった。本業もこなしながら,毎日ニュースを探し,その日のうちに記事にしてホームページに掲載する。時には徒労感を感じることもあった。 そんな伊藤さんを勇気づけたのははげましのメールだった。 「地方の話題を扱っていますから最初は地元からのアクセスが多いと思っていたんです。ところがそうじゃなかった。県外からのメールが届きだしたのです」 伊藤さんは「アクセスのドーナッツ化現象」と言う。ドーナッツの外周は海外にも広がり,アメリカやイギリス,シンガポールや中国からもメールが来るようになった。中には日々新聞に寄稿してくれる人も現れた。 「これがインターネットなんだ,と思いました。国境もなく距離もないんですね」 海外から「故郷の様子がよく分かり,とてもうれしいです」というメールが届いたときには本当に感動したという。県南日々新聞には,全国紙のような大ニュースを扱うことは少ない。地元の小学校の行事や,季節の移り変わり,商店の新しいサービスなどの日常をすくい取る。それが故郷を出た人達になにかを伝えているという実感を支えに,伊藤さんは更新を続けた。 ビジネスになれば良いのだけれども 現在,秋田県南日々新聞は一日250〜300人程度のアクセスがある。徐々にアクセスは増え続けている。名前も売れてきて「取材に来てくれ」と声がかかることも多くなった。 今後の課題はと聞くと,「希望としてはネットの新聞を続けてくれる後継者を育てたいです。でも,そのためにはこの新聞から給料を払える程度に収益があがらなくてはいけないでしょう。それが難しい」という答えだった。 今の所,秋田新幹線の大曲駅の電子掲示板「プラズマビジョン」に記事を提供する対価が唯一の収益だ。広告を出したいという会社も現れたが,伊藤さん個人のメディアと分かると二の足を踏んだ。「法人でないと広告を出せない」というのだ。秋田県のマルチメディア関連補助金を受けるという話もあったが,こちらも法人でないという点がネックとなった。「個人でやっている限り趣味と同じ扱いになるんですね」 しかし伊藤さんはあきらめていない。「この先どうなるかは分からないけれどもインターネットは後戻りなしで発展することは間違いないでしょう。とにかく続けていくことが力と思っています」と話を締めくくってくれた。 劇団主導のインターネット・プロバイダー 秋田県南日々新聞の伊藤正雄さんがホームページを開くに当たって技術支援を行ったのが,田沢湖町のプロバイダー「きたうら花ねっと」(http://www.hana.or.jp/)だった。伊藤さんのノートには作業手順が細かく書かれている。「とにかく全部メモを取ったんです。だから実の所今でも,どの動作で実際には何をやっているのかを全部理解しているわけではないんですけどね」 そこまで丁寧な指導をした花ねっとも,伊藤さんにまさるとも劣らぬユニークな存在だった。なにしろ母体が劇団だったのだ。花ねっとの事務局のまたの名は「たざわこ芸術村デジタル・アート・ファクトリー」,母体の劇団は「わらび座」という。 わらび座の歴史は古い。1951年に東京で結成,1953年に民謡と民舞からの創作を目指して田沢湖町に移転した。演劇活動を続ける一方で,わらび座は安定収入を得るために積極的に事業を展開。劇場を中心に温泉や宿泊施設,地ビールの醸造所,財団法人の民族芸術研究所などを擁する一種の芸術・リゾート複合体とでも言うべき「たざわこ芸術村」という形に発展した。劇団もここまで大きくなると経理のためにコンピューターが必要になる。1984年にオフコンを導入。この時にコンピューターの管理をすることになったのが,後にきたうら花ねっとの中心人物になる長瀬一男さんだった。 インターネットの波は田沢湖町にもやってくる。長瀬さんは考えた。「時間と空間を超えるインターネットがいかに地方にも情報をもたらすと言っても,例えば全国の95%でインターネットが使えるようになったとしても,この辺は絶対に残りの5%に入るであろう,そんな地域なわけです。これはいけない。一刻も早くプロバイダーを立ち上げなくてはますます遅れていってしまうと思いました」1996年の春のことだった。 すでに長瀬さんは前年に劇団内のLAN敷設を完了していた。その実績を持って長瀬さんはプロバイダー設立に動く。田沢湖町,角館町,中仙町,西木村の4町村は日本電信電話(NTT)の区分で同じ市外局番「0187」を持ち,3分間10円で通話できる。そこで1996年3月にこれら4町村を巻き込んで北仙北インターネット協議会を結成し,秋田県の助成金を得て,プロバイダー事業に乗り出した。 ここで長瀬さんに援軍が付いた。「半ばだますようにしてくどいて」(長瀬さん)スカウトした当時26歳の海賀孝明さんだ。2人でプロバイダーの準備が始まった。 潤沢な資金があるわけではない。モットーは「安く」だった。サーバー類はパーツを買ってきてDOS/Vパソコンを組み立て,フリーのUNIX系OSの「Linux」をインストールして立ち上げた。上位プロバイダーへの接続もなるべく安く済む方法を探して決定した。 1996年7月25日にプロバイダー事業を開業。入会金5000円に毎月の使用料2000円。これにより4町村の住民は東京と同等のコストでインターネットを利用することになった。しかしそれは長瀬さんらにとって終点ではなかった。「インターネットはインフラでしかないのです。そこに内容をこめていかなくてはならないのです。実は伊藤さんの申し出以前にもホームページで新聞を作ることを考えたのですが,私達では取材も記事執筆もできません」と長瀬さん。伊藤さんの申し出は,長瀬さんら花ねっとにとっても渡りに舟だったのだった。 コンテンツ発信の意志は「デジタル・アート・ファクトリー」という部署名にも現れていると言えるだろう。この名前はかつて「コンピューター室」という名前だったのを改名したもの。劇団が母体のプロバイダーにふさわしく,アートの分野での情報発信をしていこうとしているのである。今,その一環として民俗芸能の踊りの振り付けをモーション・キャプチャーしてお囃子などの音声データも合わせて「振り付けの楽譜」とでも言うべきデジタル舞踏譜を作成する計画が進んでいる。 女性をいかにして巻き込むか 海賀さんに続いて花ねっとに加わったのは,首都圏から転居してきた主婦だった。その甲山(こうざん)知苗さんは,田沢湖町にプロバイダーが出来ると聞いて,「このパソコンでインターネットは出来ますか」とノート・パソコンを抱えて相談にやってきたのだった。 ●写真 きたうら花ねっとの面々。前列右から海賀孝明さん,最近入った高橋路子さん,後列右から長瀬一男さん,甲山知苗さん 「そうしたら私の98ノートはWindows3.1が入っていたので長瀬さんに『Winodows95に入れ替えたらね』と言われました。それでWindows95を探しても大曲にも横手にも売っていないんです。やっと見つけて買ったらD0S/Vパソコン用で使えなくって(笑),あるお店でCD-ROM版ならあると言われたのでまとめてCD-ROMドライブも買ってしまいました」と甲山さん。その熱意が伝わったのか,ほどなく花ねっとで働くことになる。 甲山さんは以前千葉県船橋市でタウン誌の編集に携わっていた。その経験から「人々をつないていく」ことに興味を持っており,その関連でインターネットにも関心があったのである。 そんな甲山さんの出番は,長瀬さんとの「女性の会員が少ない。どうしたら増えるだろう」という会話の中から回ってきた。インターネットを通じた女性のコミュニティを作るという話になったのだ。 「その時に,まずどんな女性に声をかけたらいいかと考えてみると,実は県内で一番恵まれたネット環境にいるのは私のようにプロバイダーに勤務している事務の女性なんですね。専用線もパソコンも使っているわけですから。まずそこから声をかけようということになりました」 96年10月,県内のインターネット・プロバイダーに勤務する女性4人でコミュニティ「ミックスサラダ」(http://www.hana.or.jp/mix/)がスタートした。最初は「TCP/IP」「ハブ」といった仕事で使う用語の勉強から始め,やがて共同のホームページを立ち上げ,日記を掲載し,cgiを利用した情報交換用の会議室を作り——と一つ一つ進めていった。お互いに情報を教え合い相談し合う。そのうちに会員も20人近くにまで増えていた。 この先の目標は何ですか,と甲山さんに聞いてみた。 「植民地からの脱却」と言う意表を突いた答えが返ってきた。 「秋田って中央の意向でコメ・プランテーションをやらされている植民地みたいなものじゃないですか。そうじゃない,自分の意志で仕事をしていくようにしたいのです」 甲山さんは,一度は家庭に入ってしまった女性達がインターネットを通じてもう一度,在宅勤務の形で仕事に復帰していくことはできないか,と考えている。すでにいくつかのきざしはあるのだそうだ。将来的にはインターネットを使って在宅の主婦に仕事を提供することしたいと言う。 ひょっとして甲山さんの言う「植民地」には,家庭にしばられた女性というニュアンスがあるのかも知れない。ネットを使った「女の戦い」はこれからが本番であるように思えた。
インターネットは時間も空間も超える。しかし地方でインターネットの利用を望むなら,まずそのためのネット環境の整備から始めなくてはならなかった。しかも環境の整備は終点ではなく,それを始点として積極的にインターネットを使いこなしていくことこそが重要なのだ。 長瀬さんは,「これまではネットの整備の時期でした。これからが本番です」と言う。伊藤さんのような自発的な情報発信が果たして今後どの程度増えていくか。正念場は続く。 (98.2.5 秋田県大曲にて=松浦 晋)
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