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インターネットの光と陰
本当にインターネットは地方の未来を開くのか

[Monday, March 2, 1998 松浦 晋=日経MAC]

どうやら2月末に,3月18日発売の4月号の特集を仕上げることができた。と同時に,私自身の一身上にも変化があり,3月1日付けで日経MAC編集部を離れ,ニューズレター誌の日経ニューメディア編集部へと移ることになった。したがってこの記事は日経MAC記者として最後の記事となる。この1年間にお世話になった皆さん,どうもありがとうございました。

この連載の最終回では,読者からのメールと記事には書けなかった事柄に基づいて,「本当にインターネットは地方の時代を開くのか」についてあらためて考えてみたい。まずは出水市の事例から,インターネットの未来がどの方向にあるのかを考えてみよう。

深刻な反響のあった出水市の話

全連載中でもっとも深刻な反響があったのが第6回「個人ホームページが載せた「真実」:鹿児島県・出水市」で書いた「亀井静香建設大臣の暴言」を巡る記事だった。「まったくその通りでマスコミは信用ならない」という主旨のメールが集まり,中には「実は私もこのようなマスコミ被害を受けた経験がある」と自分の体験談を送ってくれた方もあった。「マスコミに不信を抱く人ほどメールを出す傾向がある」としても,マスコミ不信がかなり広がっている証拠と言えるだろう。その一方で自分なりの異議申し立てをインターネットで公表した内之浦昭さんの行為に対しては,賞賛に値するとしたメールが多かった。

しかしただ一通。「恐ろしさを感じた」とするメールがあった。

「確かに内之浦氏の行為は正しいが,一個人の声がこれほどもまでに増幅されるというのは悪用された時のことを考えると恐ろしいことだ」というのである。

このメールは重大な問題を提起している。インターネットは人間の意志を拡張する道具であり,悪意をも増殖させることができるのだ。

インターネットは人間そのものだ

実際インターネットには悪意が満ちている。コンピューター・ウイルスを初めとして,従来ならば表向き流通することはなかったであろう情報——確実な殺人の方法,毒物の処方と使用法,手軽なハッキングの方法,テロの起こし方,死体愛好や幼女性愛などの人間の感性の暗黒面などなどが,今,この瞬間にもパケットに乗って世界を流通している。昨年発生した神戸の小学生殺害事件では,逮捕された中学生の氏名年齢から家族構成に至るまでがインターネットに流されるという事件が起きた。確かにインターネットは我々一人一人が持っている淫靡な悪意を拡大し,世界中に流通させる力を持っている。

しかし待って欲しい。インターネットが増幅するのは悪意だけではない。インターネットは善意をも増幅するのだ。典型的な例としてフリーウエア/シェアウエアという情報の流通形態を考えて欲しい。

「このようなソフトが欲しい」「では作ろう」「一般に公開しよう」「使ったら不満な部分やバグもあった」「では直してまた公開しよう」という善意の集積が,ネットの出現以前には存在しなかった新しい情報のやりとりの世界を作っている。悪意がはびこる一方で善意もまた広がっている。なんのことはない。インターネット内を流れる情報は人間存在そのものを反映しているのである。

今はインターネットがまだまだ珍しいメディアであるために表の世界で圧迫されている暗黒面の情報が流れ込む状況にある。しかし,いずれインターネットが当たり前の者となった時,そこは全ての人々の意志の総和としての情報的なカオスとなるはずである。インターネットは全ての人々の意志の反映となるだろう。

つまりインターネットの未来とは我々の未来に他ならない。

そう考えると自ずとインターネットに接する態度も見えてくる。悪意ではなく善意を。

というとすぐに「一見善意に見えるけど結果として悪意になるようなものはどうするの」「宗教の勧誘のようなものをどう考えるのか。やっている本人は善意だが勧誘される側からすればうるさいだけだぞ」というツッコミが入るかも知れない。が,そう言った失敗も含め,常に善意というものを意識してインターネットに接することこそがインターネットの未来を開く態度ということになる。「人間はそんなに良い子チャンではないよ」という意見が強く,また説得力を持つことを十二分に承知した上で,私は「インターネットは善意によってこそ成立するメディアである」ということを主張したい。

それはちょうど「万人の万人に対する闘争状態」という相互の悪意に基づいた「市場経済」というシステムを裏返したものである。もちろん現状のインターネットはひ弱く,とても市場経済に対する対立物となるようなものではないが,そこにかいま見える「善意によって成立するコミュニティ」という概念は決して過小に扱ってはならないだろう。

平等なるが故の闘争状態

が,我々は,同時にこの善意によって成立するメディア/コミュニティが,激烈な競争をも引き起こすことを理解しておかなくてはならない。

インターネット以前ならばマスコミは情報の流通において特権的な地位を占めてきた。たとえ誤った報道があったとしてもマスコミ全体が口を拭えば,誤りはそのまま「真実」となったのである。しかし出水の事例からも分かるように,インターネットの出現によって,全ての人が「そこの王様は裸だ」と主張できるようになった。情報流通業のマスコミは,今やインターネットに集まった多数の「素人衆」によってその独占を脅かされているといって過言ではない。

「取材の独占」の大部分は検索エンジンによる情報収集で代替され,「情報流通の独占」は,ホームページの出現で崩れた。マスコミの優位は「人と足を使ったネットに存在しない一次情報の収集と,真の見識に基づいた情報の整理」に限定され,間違った記事を載せようものなら,素人衆のホームページに以下のような記事が掲載される。「やあい,日経MACはこんなバカな記事を載せているぞ。リンクはこちら」。

この競争には誰でも参加できるし,誰にでもケンカを売ることができる。どんなにきれいに住み分けがなされていても,そこにアグレッシブな競争者が参入する妨げにはならない。先行者の利益も遅れた者の不利益もない以上,「どちらがより有用な情報を,リーズナブルなやりかたで提供したか」によって全ての勝敗が決まる。

地方こそがインターネットの時代を開く

さて,やっと本題だ。

「善意によって成立するメディア」「激烈な競争原理を導入するメディア」,この2つの面から,「本当にインターネットは地方の時代を開くのか」ということを考えてみよう。

結論を先に言えば,これらの条件はむしろ地方に有利に作用するはずである。なぜならば「地方」こそが伝統的な意味での善意が共同体の中に生きている場所であり,同時地方こそがこれまで情報流通の面で都会に対して圧倒的な不利益を被ってきた地域だからだ。

連載第1回(小中学生が全員メールアドレスを持つ町:北海道・標茶町)の標茶町の商店街の人々がインターネットに触れてなにを感じたかを思い出してみよう。連載第2回(記者一人の小さな電脳地方紙とそれを支える「劇団プロバイダー」:秋田県・田沢湖町)の伊藤正雄さんときたうら花ねっとの協力関係を考えてみよう。あるいは連載第5回(Webmasterは「警部補」:島根県・松江市)の松江で奮闘する警察官Webmasterの松田修平さんが,「これなら都会に勝てるかも」と思うようになった経過をもう一度追ってみよう。

「地方に善意が残っているというのは都会人の皮相な見方」なのかも知れないが,それでもインターネットがこれまでの情報格差をひっくり返すことによって,地方という場所を「それぞれに意味のある中心」に変える力を持っていることが理解できるはずだ。

「地方こそがインターネットの時代を開く」と断言して良いと,記者は考える。

インターネットを阻む旧習

それならば,それを妨げるものは何だろうか。それは間違いなく「地方の人々,特に行政府の中のインターネットを理解できない人々が守ろうとする旧習」だろう。

以下はこの1年間の日経MACでの取材の合間に聞いた様々なエピソードだ。

・インターネットに関連して役場が会合を開き,午後4時半に終了した。しかし役場関係者はあれこれ議事を引き延ばして散会しようとはしない。午後5時になると彼らは蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。終業時間まで議事を引き延ばしたのである。

・とある自治体のシンボルマークを利用しようとした某ホームページのWebmaster。イヤになるほどの枚数の申請書と書き,ハンコをもらわなくてはならなかった。

・補助金によって全館にLANが敷設された役場。しかしそこでは全パソコンに1台ずつプリンターが付属していた。役場関係者はネットワーク・プリンターというものを知らず,古いシリアル・プリンターを多数,業者に売りつけれらたのである。しかし「どうせ補助金だから」と反省しない役場関係者。

確かにインターネットがもたらす競争社会に投げ込まれるのを嫌う人々は存在する。補助金と談合に慣れ,9時から5時まで休まず働かず,時には官官接待でいい思いをする——そんな生活に慣れた人は,インターネットをうさんくさいと思い,排斥するはずだ。しかし,ネットのもたらす競争が,意欲のある人に意欲を発揮する機会を与えるのなら,それはなれ合いがもたらす経済効果よりもはるかに意味があるはずである。なれ合いの中に生きる人には苦痛以外の何物でもないだろうとしても,だ。

金の流れが変われば,当然ながら犠牲も出る。今回の取材のそこここで聞いた話。

・官官接待がバレて自粛になった結果,○○(県庁所在地)の飲屋街は火が消えたようになり,閑古鳥が泣いている。

あきれた話だが,官官接待はまた,地域の飲食店街の活性化に役立っていたのである。しかし間接的に税金をばらまくようなやり方で得られる活性化効果は同時に,人々のやる気を削ぐ。今回の取材の合間に,あちこちでさびれた商店街を見た。皆,郊外の大型店舗に客を取られたのだと言う。一人の案内者が言った言葉が耳に残っている。「色々ありましたけどね。結局は補助金をあてにして努力しなかった,これに尽きるんですよ」

それに比べれば標茶町の商店会の仮想商店街への取り組みがいかに自発性にあふれたものかが理解できるだろう。商店街を救うことは重要だ。しかしなろうことなら,それは単なる補助金ではなくネットを通じた競争社会への参入の形で行うべきなのである。 

最後に——自分の頭で考えよう

もう10年以上前,私は北海道庁の高官を取材した事がある。滔々と国からの補助金によって行いつつある事業を説明した彼は,取材の最後にこう言った。「北海道には500万人からの人が住んでいる。彼らの生活を保障するのは東京の義務だ」。これを聞いたときには本当に絶望的な気分になったのを覚えている。

今回取材に回って非常にうれしかったのは,このような国にべったりの発言を聞かなかったということだった。確かに北海道の標茶町はその財政のほとんどを国からの補助金に頼っているが,会った人々からは「もっと補助金をよこせ」というような発言は出なかった。標茶でも,大曲でも,安曇でも,松江でも,出水でも,会った人は皆自分の頭で考え,自分の力で行動しようとしていた。

激烈に競争原理の働くインターネットはまた,自分の意志でなにかをしようとする者にはやさしいのだ。

私が見たのは,日本全国の自分の頭で考え,行動しようとしている人々が,今,インターネットにつながりつつある姿だった。それが日本を変える——などとは言うまい。「地方」が快適で住みやすい,若い人にとって一生を賭けるに足る土地になれば,十分なのだから。

(98.3.2 東京にて=松浦 晋)


※この記事のご感想を,smatsu@rr.iij4u.or.jp(松浦)までお寄せください

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